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『君たちはどう生きるか』論考|この世界が終わっても君の人生は続く。君たちがどう生きるかは君たち次第だ。

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© 2023 Studio Ghibli
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タイトルの説教臭さに惹かれて『君たちはどう生きるか』のチケットを買った。失われた30年の後、システムのあちらこちらに綻びが目立ちはじめたこの社会で、宮﨑駿がどんな説教を大衆にかますのか興味があった。しかし、その期待は裏切られることとなった。映画の向こうに私が見たのは、「大変なことばかりだし間違いだらけだったけど、今思うのはここまで生きてきてよかったということです。あなたも生き続けてみてはどうですか」と遠慮がちに微笑む82歳の宮﨑駿だった。

*この記事は映画『君たちはどう生きるか』のネタバレを含みます

意図的に隠された強烈なメッセージ

宮﨑駿が本作に込めたメッセージは、『千と千尋の神隠し』以降の彼の作品同様、「生まれてきてくれてありがとう」という「生」の絶対的肯定である。しかしながら、『君たちはどう生きるか』においてそのメッセージは、意図的に隠しているとしか思えないくらい分かりづらく描かれる。ヒミが、自分がやがて火事で亡くなる運命と知っても現実世界へ帰り、将来眞人を産む選択をする場面が物語上のクライマックスのはずだが、ここに至る一連のシーンはあまりに淡白に描かれる。更に、ヒミがいつ自分が眞人の母親だと知ったのか、いつ火事で亡くなる運命を知ったのかも描かれない。ラスト、ヒミと眞人の別れの場面で彼女が唐突にこれらの事情を理解しているため、観客が追いていかれるということもある。これまでジブリ映画で数々の名曲を生み出してきた久石譲が、感動的なメロディーを奏でることもない。

夏子の物語も同じく出生の肯定の物語だろう。彼女は戦争が起きている残酷な世界にお腹の子を産み落とすことにためらいを感じ、あの異世界で赤ちゃんを産もうとしていたのではないか。それゆえに、夏子が現実世界に帰って出産するという事実、そしてヒミが「元気な赤ちゃんを産みなさいね」と言葉をかけるシーンは、本来、もっと感動的に演出されてもよい場面なのだ。

このように、本作は久子(ヒミ)と夏子という二人の母親の出産というモチーフを通して、宮﨑駿の過去作以上に強烈にその生の肯定というメッセージを伝えうる筋書きを持っている。しかしこれはあくまで筋書上の話である。完成した映画では、この出生にまつわるストーリーラインは説明不足で、端折られ、映像や音楽の演出により強調されることもない。観客がこの映画で起きたことを反芻してはじめてそのメッセージを受け取れるような、言ってみれば不親切な描き方となっている。この理由はなんだろうか。

今、吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』を語り直す意味

まず、教科書的な回答として、観客が能動的に咀嚼してはじめてメッセージが伝わる作りとすることで、より深く心に残す効果を狙ったのだと思う。メッセージが間違いなく伝わる、エンタメ的な作りの映画ではないのだ。これは、製作委員会方式ではなくスタジオジブリ100%出資という特殊な体制だからこそ実現できることをやり切った結果である。映画『君たちはどう生きるか』に意味を見出すには、観客がそれを自分で取りに行く必要がある。これは、吉野源三郎が小説『君たちはどう生きるか』で発した、自分の頭で考えて意味を見つけることこそ大切というメッセージを宮﨑駿が語り直しているのだと解釈することもできる。

そしてこの解釈はおそらく正しい。第二次世界大戦がはじまる2年前、みるみるうちに日本が軍国主義に染まり、言論や出版の自由が著しく制限される中で、吉野源三郎は「世界がどうなっても人間でいてくれ」という少年少女への切実な思いから『君たちはどう生きるか』を書いた。宮﨑駿は「現在我々が生きている目の前の状況も、この本が描かれた時期とそれほど大差のない、ある意味ではもっと根源的な文明の危機に直面していると思っています」と2006年に書いている。(『折り返し点』宮崎駿 p. 460)宮﨑が言う文明の危機とは、アメリカ型の消費社会である。戦後、日本が犯してきた経済的失敗を第二次世界大戦になぞらえ、バブル崩壊はミッドウェー海戦(1942年6月初旬、日本連合艦隊は中部太平洋のミッドウェー島沖の海戦で、アメリカ海軍に大敗北。これを境に緒戦で優勢だった日本軍の敗退が始まる)であり、1945年の敗戦はこれからやって来ると、1996年の筑紫哲也との対談の中で宮﨑は述べている。(『出発点』宮崎駿 p. 30-31)30年余りの経済停滞を経て、いよいよ国の弱体化が実感としても感じられるようになってきた今、暗雲立ち込める開戦前に吉野が祈るような思いで書いた『君たちはどう生きるか』を語り直す必要があると宮﨑が考えたのは想像に難くない。

大変な時代に「生きろ」と言うことの後ろめたさ

そのもっともらしい解釈と同時に、私は単に宮﨑駿は後ろめたかったんだろうとも思う。そして、むしろそこに今の宮﨑の誠実さを感じる。『千と千尋』以降の宮﨑は作品を通して常に「世界がどんなことになっても、生まれてきてよかったんだよ」というメッセージを発してきた。『千と千尋』では、複雑化する世界でも生きていく力を身につける少女を描き、『崖の上のポニョ』では、大災害に見舞われても復興する人間の生命力を肯定した。

『千と千尋の神隠し』© 2001 Studio Ghibli・NDDTM

同時に、より不安定で困難になっていく世界の中で、無条件に生を肯定してよいものかという、宮﨑駿の中にもともとあった迷いもだんだんと膨らんでいったのではないか。現実に、経済的困窮から恋愛の機会に恵まれない若者、結婚・出産を控える若者も増えてきた。そんな状況にあって、二人の母親が出産を選択するというストーリーを前景化させても、現代の若者は距離を感じるだけではないだろうか。この『君たちはどう生きるか』は、宮﨑駿がはじめてその生や出生を肯定するメッセージを意識的に後景化させた作品と言えるのではないだろうか。まったく押し付けがましくないのだ。その語り口にこそ、私は宮﨑の今を生きる若者に誠実に向き合う姿勢を感じ感動した。

第3の原作?堀田善衛著『方丈記私記』

『君たちはどう生きるか』は宮﨑駿が最も尊敬する作家のひとりである堀田善衛の『方丈記私記』の映画化でもある。宮﨑は堀田善衞全集に寄せたエッセーに、同作のアニメーション映画化は「僕の宿題」と書いている。映画冒頭、眞人の母親が火に包まれるシーンは、『方丈記私記』の冒頭に綴られた、親しい女性が東京大空襲による火災で亡くなる場面を想起させる。

『方丈記私記』で最も印象的なのは、堀田が東京大空襲の焼け野原で昭和天皇の焼跡視察に遭遇する場面だ。堀田は、戦災を受けた人々が、本来謝る立場にあるはずの天皇に逆に土下座して謝る様子を目撃し、これでは国は良くならないと考えた。世界でも抜きんでて地震・津波・台風などの天災が多い国土で、天災を「仕方ないこと」として受け入れる精神が日本人には根付いている。堀田は、国民が権力者による人災も天災と同様に「仕方ないこと」として受け入れてしまっているのではと分析し、これを「無常観の政治化」として批判した。

『崖の上のポニョ』において、宮﨑駿は津波に飲み込まれて世界が水没した後、宗介が元は魚であるポニョへの愛を誓うことによって世界が元に戻るという結末を描いた。この映画の公開の後、そして宮﨑が『風立ちぬ』の関東大震災のシーンの絵コンテを書いた翌日に、あの東日本大震災が起こる。彼が『ポニョ』で描いた災害に対峙する人間の生命力は、現実の災害によって疑問符を突き付けられることとなる。東日本大震災に続いて起きた原発事故は、天災かあるいは人災かという問題も孕んでいた。こうした経緯から、宮﨑駿は堀田善衛の「天災と人災を混同しすべてを無常観のもとに受け入れる」という指摘を改めて強く意識するようになり、『方丈記私記』の思想を取り込んだ映画を作りたいと思うようになっていったのではないだろうか。

『君たちはどう生きるか』に描かれる無常観

堀田善衛は東京大空襲による火事で親しい女性を失った経験から、無常観に憑りつかれ、それをきっかけに鴨長明『方丈記』を読み込むようになった。火事で母親を失った眞人も同じような精神状態にあったのかもしれない。眞人は少年期の宮﨑駿の自画像である。現実には、宮﨑が42歳の時まで母親は存命であったが、少年期を第二次世界大戦の影響下で過ごした監督自身、無常観や死というものを意識せざるを得ない少年だったのかもしれない。

現実の悲惨さを真正面から受け止める人ほど、「こんな世の中で生きていく価値はあるのか」と考えるのは想像に難くない。あの異世界でキリコは眞人のことを「眞(まこと)の人か。だからか。お前、死の匂いがぷんぷんするぞ」と言っていた。夏子も、果たして戦争をしている世界に生まれる赤ちゃんが幸せになれるのかという疑問が拭いきれず、異世界に迷い込んだ。

今ここにある生を全うする眞人の父

無常観に囚われ死に接近する眞人や夏子と対比されるのが眞人の父親だ。もちろんこの父親は、実兄と共同で宮崎航空機製作所を創業した宮﨑駿の父親がモデルとなっている。戦争へ突き進んでいく日本にあって切実に時代の危機感と向き合った吉野源三郎と、当時を振り返り「いやあ、面白かったよ」と能天気に語る父親の間に横たわるギャップが、宮﨑は長い間理解できずにいたという。青年時代は、戦争を利用して儲ける父親に憤りも感じていたそうだ。その後、父親は太平洋戦争の18年前に起きた関東大震災の体験から『死んだらおしまい』という実感を持つようになり、それゆえに時代を無視するかのようなのんきな生き方をしていたのではないか、と65歳になった宮﨑は推察する。(『折り返し点』宮崎駿 p. 462-464)だからなのか、この映画に登場する父親は、戦争を利用する醜悪な人物ではなく、その時代に存在した人間の一つのバリエーションとして中立な視点から描かれる。

『風立ちぬ』は戦闘機“零戦”の設計者 堀越二郎の半生を描く © 2013 Studio Ghibli・NDHDMTK

築地塀の中で平和な世を詠い続ける

『方丈記私記』の中で堀田善衛は日本の「本歌取り文化」を批判する。「本歌取り」とは、有名な古歌のフレーズを借用して和歌の意味にふくらみを持たせる技法である。堀田は本歌取り文化は、①現代の言葉を使うこと②現実を見つめることの否定という、2つの否定を含むものとして批判する。平安末期、貴族たちは和歌や蹴鞠に明け暮れて平和な世の歌を詠むだけで、現実の政治を行わなかった。役人たちは、農民から多くの税を取り立てて私腹を肥やすことしか考えなかった。人心は荒れ、朝廷(政府)が警察のような治安維持機能を持たなかったため、強盗や殺人が蔓延した。

堀田は本歌取り文化により、伝統的権威の存続それ自体が目的化することを批判する。映画の中で、インコたちは権利の拡大と共同体の存続のために団結する集団として描かれる。各個人の意思は持っていないような描写であったと思う。ましてや、彼らの共同体のあり方について批判的に思考し疑問を呈するインコなどいなさそうだ。

先の大戦に敗れ、米国による支配という屈辱の後、次は経済発展という戦いに国民一同身を投じ未曾有の成長を遂げた日本。その時に作られたシステムの大部分が、失われた30年を経てもなぜか維持され続ける日本。バブルが崩壊した1991年に生まれ、長期の経済停滞の中を生きてきた筆者は、あらゆる側面で綻びが目立ってきた旧来のシステムが未だ維持されることを不思議に思い続けてきた。今の私たちだって、築地塀(ついじべい)が破られはじめているのに、その囲いの中で平和な世を詠い続ける平安貴族みたいなものだ。黒船、敗戦のように、社会を根本から揺るがすXファクターがやってくるまでこの国は変わらないのだろう。困窮する者はますます困窮し、既得権にしがみつく者はより強固にしがみつくのだろう。

高度経済成長期から日本が固持してきた旧来の成長モデルには限界が来ている、というのが一生活者、一労働者としての実感だ。そんなことを日々考えているからだろう、あの大叔父の塔が崩壊するのは爽快であった。しかし、この衰退ポルノ的な一瞬の快感の後すぐ、この映画において、あの異世界の崩壊=(イコール)眞人が生きる世界の崩壊ではないことに気付かされた。国が破産しても、戦争や大地震が起きて社会が崩壊したとしても、眞人の人生は関係なく続くのだ。

国が破産しても、みんな平気で生きてますよね・・・国があんまりにも愚かでどうしようもないとひどい目に遭いますけど・・・人々というのは、国と関係ないんですね。

『出発点』宮崎駿 p.22-23

宮﨑駿と新海誠

宮﨑駿同様、「日本人と無常観」というテーマを作品の中心に据えてきたアニメ作家が新海誠だ。公開時から作中のジブリオマージュが話題となった『星を追う子ども』(2011)の中に、シンというキャラクターのこんな台詞がある。

アガルタ世界は現世での生命の儚さ、意味の乏しさを知りすぎている。だからこそ滅びゆくのではないか

『星を追う子ども』(2011)

これはまさに、日本人に根付いた無常観が国の没落につながるのではという堀田善衛の指摘に通じる考えだ。批評家の藤田直哉氏は、新海誠はどうすれば国民的作家になれるのか、宮﨑駿や村上春樹を分析し、作品テーマとして国民的問題を取り上げる必要があると考えたのではないか、そしてその国民的問題とは、日本人が災害(天災・戦争)とどう向き合うのかという問題なのではないかと分析する。(ポッドキャスト「だいまりこの ゼロから学ぶ 街場の大学 第1回『新海誠論』ゲスト藤田直哉」より)

© 2022「すずめの戸締まり」製作委員会
引用元:ぴあ映画(https://lp.p.pia.jp/event/movie/220843/photo-gallery/index.html?id=5

世界の終わりのカタルシス

世界の崩壊はカタルティックである。気候変動や経済といった社会レベルの問題から、人間関係や家計といった個人レベルの問題まで、山積した問題が一気にリセットされる快感がある。私は、『君の名は。』以降のいわゆる災害三部作に描かれる世界の崩壊にこのカタルシスを感じてしまっていた。

『すずめの戸締まり』も『君たちはどう生きるか』同様、現実へ回帰していく物語だ。新海誠は、この災害三部作の最終作において、日本人が災害で受けた傷をどう受け止め、真の意味で乗り越えていくかというテーマに挑んでいる。家業の旅館を手伝う少女、スナックで働くシングルマザーなど、主人公の鈴芽が旅の中で市井の人々と出会い成長していく。そこには、セカイ系という枠から飛び出し、主人公の外側にある社会とのつながりを描こうとする新海監督の姿勢が見られる。鈴芽は災害を起こすミミズを常世(異世界)で鎮め、現実に帰ってくる。

それでも、私はあの東京で大地震が発生する予兆が描かれたシーン(結果、鈴芽は地震発生を防ぐことに成功する)に、『君の名は。』『天気の子』同様、世界が終わることのカタルシスを感じてしまっていた。ダイナミックな構図、美しい美術と特殊効果、ドラマチックな音楽を用いた新海監督の演出に否が応にも心動かされてしまうということもある。筆者は2023年2月に東京から沖縄へ移住したが、移住の決心をする際、本作に描かれた首都直下型地震の描写が頭をよぎったことを記憶している。

ファンタジー世界以上に魅力的な現実世界

一方、『君たちはどう生きるか』の異世界の崩壊は、まるでそれがカタルティックに消費されることを拒んでいるかのようだ。ここでは詳述しないが、この映画においては、崩壊の前段階においてあの異世界が魅力的に描かれず、一方で現実世界の描写はあまりに魅力的だからだ。映画の前半、現実のシーンでの実写映画のような演出・人物の芝居こそ本作の白眉だと思う。冒頭の火災のシーンで、寝間着のまま家を飛び出そうとした眞人が一度寝室に戻り着替えるくだりをわざわざ描くのを観たとき、「宮﨑監督、今回はアニメじゃなくて映画を作りたかったんだな」と思った。また、本作で最も優れたアニメーション表現は現実世界に集中していたと思う(冒頭の火災、青サギの飛行、眞人の寝顔を見つめる夏子の芝居など)。

一方、異世界の描写の魅力は、現実世界のそれと比べて明らかに劣る。宮﨑駿の過去作を思わせる諸シーンは、オマージュ元のオリジナルより色褪せて見える。メタファーとしての意味付けを重視したワラワラやインコ軍団といったサブキャラたちには、『もののけ姫』のこだまや『千と千尋』のオオトリ様ほどのキャラクターとしての魅力はない。本作の白眉と感じた、実写映画のような丁寧な人物描写も異世界に入ってからは鳴りを潜める。

『千と千尋の神隠し』のオオトリ様 © 2001 Studio Ghibli・NDDTM

一連のオマージュシーンは、過去作の本歌取りと見ることもできる。あの大叔父の世界は、貴族たちが現実を無視して和歌を詠む築地塀の中の世界だ。その外には現実が広がり、そこでは戦争が起き、人が死んでいる。更には、宮﨑が異世界よりも現実世界の描写に情熱を傾けている点が興味深い。そして、そのアニメーションの質の高さは現実の事物――人物の動きや表情、青サギの飛び方など――の子細な観察に裏付けされている。これが堀田の本歌取り文化批判と繋がっていて面白いのだ。堀田の本歌取り批判は、伝統や権威の存続に固執するあまり、目の前にある現実を無視している状態を批判するものだ。宮﨑がこの映画を作る姿勢からも、完成した作品からも、ただ過去を模倣するのではなく現実を見て学びなさいというメッセージが伝わってくる。

宮﨑が作りながらこれを意識していたかは分からないが、結果的に、異世界よりも現実世界での眞人の生活を丁寧に、映像作品としてより魅力的に描くことにより、「現実に回帰する」というテーマが強調される仕上がりとなっている。これまでの宮﨑作品と異なり、現実世界がファンタジー世界以上の存在感を放っている。

君たちはどう生きるか

本作のこの構造、崩壊する世界の外側に現実があるという構図に、私は宮﨑駿がどんなに生きづらい時代になっても「生まれてきてよかったんだよ」と言い続けてきた真意を知った。もちろん環境によって個人の幸福度は左右されるが(例えば、最近よく目にする氷河期世代の不遇さにまつわる発信を見ていると、生まれた時代による不公平を痛切に感じるが)、究極的には、国や社会がどうなろうと、関係なく人は生き続けていくのだ。

世界がどんなことになっても、一人の人として何を考えどう行動していくかという隙間はある。国や時代のせいにして言い訳できない不可侵領域。ごく限られた小さなスペースかもしれないが、そのスペースにおいて「生まれてきたよかったんだよ」と宮﨑駿は祝福しているのであり、「君たちはどう生きるか」と問いかけているのだと思った。この映画を観た後には、「君たちはどう生きるか」という言葉は優しいお守りに変貌する。それは「どう生きるべきか」というお説教ではなく、「世界がどんなことになっても、君がどう生きるか、君自身が決める余白はあるんだよ」という自由意志の肯定である。

SNSに冒された私は、大変な時代だからと人生に対して後ろ向きになり、新海誠がカタルティックに描く世界の終わりを恐れながら、どこか興奮すら覚えていた。複雑で不安定な時代だからこそ、人は「こういう時代だ」という分かりやすい正解を求めるのかもしれない。アテンションエコノミーがそれに拍車をかけている気もする。ネットを通して見えてくる社会や時代の様相からは、宮﨑の言う、国や時代と関係のない多様な人の営みはバッサリカットされている。映画『君たちはどう生きるか』が訴えるのは、現実への回帰だ。国や社会経済、世間が向かう方向と自分の価値観が違っても、余白の部分で幸せを追求する。仕方ない、と諦めるのももったいないし、今の時代に最適解とされる生き方をただなぞることもしたくない。これこそ、この時代に「人間である」ということなのかもしれない。吉野源三郎が軍閥政治に巻き込まれていく少年少女に訴えたように、宮﨑駿も今を生きる私たち観客に「人間であれ」と訴えかけているのだ。

宣伝ゼロ方針がくれた貴重な映画体験

最後に、鈴木敏夫プロデューサーによる宣伝ゼロ戦略について書いておこう。本作への影響が見られる吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』、イギリスの児童文学『失われたものたちの本』、そして『方丈記私記』に共通するのが「自分で経験して得ることにこそ意味がある」というメッセ―ジだった。

・・・私が以下に語ろうとしていることは、・・・『方丈記』の鑑賞でも、また、解釈でもない。それは、私の、経験なのだ。

ちくま文庫『方丈記私記』堀田善衛 p. 7

これを考えると、やはり宮﨑駿の中に「自分で考えてこの映画から意味を見出してほしい」という思いがあったのかもしれない。制作者サイドから「この映画はこういう風に観てください」というガイドを一切提供しないこの宣伝ゼロ方式は、自分で考えるという本作のコンセプトを真正面から捉えた、本邦ではあまり類を見ないほど作品の本質を突いたやり方だったと思う。

この宣伝方針のおかげで、私を含めた観客は、事前情報なしのまっさらな状態でこの映画と向き合うことができた。この一点において、鈴木プロデューサーの英断に心から感謝したい。公開から3週間以上経った今でも本作のパンフレットの発売日が発表されていないことからも、映画の意味を自分で考えてほしいという制作者サイドの徹底した意志を感じる。

【2023.8.7 追記】スタジオジブリはパンフレットを8.11(金)に発売することを発表した。

★映画『君たちはどう生きるか』は全国の劇場にて公開中

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